長城を越えた北の果ては思いのほか己の故郷である雁門と似ていて、夏だというのに寒々しく乾いたこの地は、何処か懐かしささえ覚える。そのような郷愁など一笑に付してしまいそうな男を前に、張遼は酒瓶を傾けて最後の一滴まで注いだ。この一瓶で終わりだと張遼が勝手に決めつけた為、向かいに座る郭嘉が恨めしそうな顔で、なみなみと酒の入った杯を眉を寄せて見据えている。しかし分けてやる気は毛頭なく、奪われる前にさっさと飲み干してしまった。無言のまま不穏な視線を張遼の鳶色の目に移すも、一騎当千の将にたじろぐ様子は微塵もない。
「飲み足りんぞ」
「その顔色を何とかしたら、考えん事もないが」
天幕の内にさえ隙間から北風が吹き抜ける。張遼は郭嘉に悟られないよう、慎重に風上に大きな身体を移動させた。軍略が全てだというこの男の具合が芳しくない事など、降った時からずっと反り返った後姿を見てきた張遼に解らない筈もなかった。日に日に痩せてゆく体躯を一体どんな思いで見つめているか、郭嘉自身も気付いていない訳ではない。しかし己の脳と舌だけでのし上がってきた男、こんなところで退くわけがなかった。
「知っているか、酒は万病に良いらしいぞ」
「……お前に効くのか?」
「さあな。だが、それは今飲んでいる薬とて同じ事だ」
「まったく……」
結局のところ、張遼は郭嘉に甘いのだ。いそいそと何処からか取り出してきた新たな酒瓶を横目に、後に鬼神と呼ばれる男は諦めの溜息を吐いた。
「抱け」
この男に色気や何かを求めているわけもないが、唐突で剥き出しのその言葉に流石の張遼も狼狽を隠しきれず、手にしていた酒を数滴地に吸わせてしまった。
「……どうした」
可否よりもまず理由を問い質す。何故なら「抱きたい」と言って承諾された事はあれど、郭嘉から求められた事などただの一度も無かったからだ。普段よりも幾分か酔っているようには見受けられるが、それにしてもこのような台詞を吐くなどおよそ郭嘉らしくなかった。
「抱かれたい、と思うのは悪いのか」
拗ねたようにふいと横を向く。酔いで火照った頬が余分に赤くなっているように見え、張遼はどうしようもなくなり華奢な身体を太い腕で抱き締めた。元より拒否する謂れなど何処にもない。比喩などでなく本当に力を込めれば折れてしまいそうで、力の抜き加減に苦心していると郭嘉がぽつりと呟いた。
「多分、最後だ」
それを意味するものが何か解らぬほど愚鈍ではなく、たまらずその場に組み敷いた。
「冷静沈着と評される将軍らしからぬ行動だな」
「郭嘉!」
何故そのような文言を吐く。いつだって強がって時には虚勢すら張るこの男が、このような弱音など。
「自分の身体はな、張遼」
自分が一番よく知ってる。そう言って微笑む顔は、信じられないほど穏やかであった。
文官とは言え己と同じ性とは思えない程に心許ないこの身体を、張遼は何度貪ったか知れない。元来色情に対しては淡白らしく、遊里に足を運んだ事すらない程であったのに、郭嘉に対してだけは、弱にも満たない童さながらの必死さで掻き抱き続けた。己のどこにそのような熱があったのかと、我ながら驚き呆れもしたが、魂が求めているのだ。この男を。
筵(むしろ)に転がった郭嘉を横抱きに掬い上げると、その軽さに暫し呆然とした。まるで幼子(おさなご)のようなその重みは郭嘉の命そのもののようで、戦で先陣を切る時とは比べられない程の恐怖が全身を駆け巡った。
「張遼」
最早骨と皮だけの腕を持ち上げて、立派な体躯におよそ似つかわしくない、迷い子のような顔に触れた。
「皆いずれ死ぬ」
だからそんな顔をするな。そう続けると張遼の顔が悔しさと悲しみに歪み、郭嘉はまた失敗したなとぼんやり思った。自分がそう長くない事を自覚した時は、絶望に打ち震え荒れたりもしたが、己が武以外何ひとつ省みようとしないこの男が、俺の死ひとつの為にこのような貌をすると知れたのだから、悪い事ばかりでもない。
遠くで鳥の鳴き声がする。もうそのような時間かと張遼はぼんやりと天幕の入口を見やった。隙間からは薄暗い光と乾いた風が零れている。
結局、朝まで眠れずにいた。女を抱く時より南蛮の硝子細工に触れるより丁寧に丁寧に、それでも怖れを感じながら、抱いた。そのような自分は全て見通しているのだろう、郭嘉は何度もあやすように笑って頭を撫でた。時折発作のような咳を繰り返し、幾度もその肉刺だらけの手は血に塗れたが、それでも郭嘉は「気にするな」と微笑った。そして、「すまんな」とも言った。「このような躰ですまない」と。
何度名を呼び、何度泣きじゃくっただろう。その度に郭嘉は、「随分とでかい童(がき)だ」と苦笑しながら逆立った髪をくしゃくしゃと触り口吻けていた。大きな瞳を薄く潤ませて。
傍らには小さな躰を丸めて眠る郭嘉がいる。ほっそりとした白皙の腕が覗いて、思わず緩く掴んでしまった。以前の郭嘉ならそれだけで目覚め、「突然なんだ」と寝起きの悪さも手伝って唸るように怒っただろう。しかし最早薬の効かぬこの躰はせめて、睡眠だけでも摂取しようと貪っているのか、一向に起きる気配はなかった。掴んだ手首にはとくとくと血が走り、低いながら温かいものが皮膚越しに伝わってくる。
「生きている」
自分に言い聞かせるように、張遼は呟いた。
「生きているぞ、郭嘉」
お前の躰はまだ、こんなにも生きようとしているではないか。もう散々に絞りつくしたと思っていたのに、またかさついた頬から水滴がひとつふたつと転がった。郭嘉の澄み切った瞳が見たいと思った。ゆるく癖になっているふわふわとした猫毛に武骨な指を絡ませながら、その薄い瞼が開きやがて焦点が自分へと結ばれるのを、幾筋と頬を伝うものを拭う事すら忘れたまま張遼はじっと待った。
作成日: 2008/08/08
半年以上前に途中まで書いたものを放置していて、腐りかけてたところを付け足したら、どうしようもない事になりました。直したいけどどうすればいいのか分からない。日本語が不自由なのでもう…。