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聞こえる

との。

褥の中の、慈しむような声。

長い青灰の髪を靡かせて、主は馬上で振り返った。ちょうど後列で付き従っていた私を認めると、瞠目させていた双眸をそっと伏せ、馬首を返して眩しげに空を見上げた。

「どうなされました」

お声を掛けるべきかどうか一瞬逡巡したが、主の纏う気は拒絶を示していないと判断し、愛馬をゆるりと主に近づけた。視線の先は天に置いたまま、その目をすいと細める。

「呼ばれたのだ」

「……は、」

「奉孝に」

私はこのように優しげに微笑む主を見たことがなく、またそれ故に、宝物を大切に紐解くかのように紡がれたその名に胸が軋んだ。かのひとはもう、この地には居ない。

「殿……」

自分に掛けるべき言の葉など何もなく、またそれは何の意味も為さない。喉が支えるのを自覚していると、主はふと苦笑とも嘲笑ともつかぬ笑みを漏らされた。

「おまえにも聴こえぬか」

「…………、いえ」

ふると緩慢に首を振ると、「そうか」と主は今度こそ苦笑を零された。

忘れた事などありはしない。阿鼻叫喚の戦場に毅然と立つ、黒衣の軍師。数多の戦場を共に駆け抜けた。かのひとが生きた証は、今もこの胸に鮮明に焼き付いて離れる事はない。

主はまた、天空を仰がれる。空はまるで終焉を知らぬような、抜けるような蒼で、それはとても鮮やかだった。

「聞こえるのだ 奉孝の声が」

一陣の風が、主の髪を乱した。それを直すでもなく自然に任せながら、馬のたてがみを一つ撫ぜた。

「あの日からずっと、私を呼んでいる」

そうして、項垂れるかのように天から視線を引き剥がす。覆われた乱れ髪で、その表情を目にする事は叶わなかった。そして主に呼応するかのように、私も瞼を降ろす。

――――郭、司空軍祭酒どの。

あなたは今、この天の果てにおわすのか。そちらではもう、病に苦しんではおられぬか。あなたに話したい事も伺いたい事も沢山あったのに、何ひとつ告げられぬままあなたは去った。皆に痛みだけを遺して。

「丞相に、お逢いしたいのでしょうか」

呼気のようにするりと口にして、はっとする。私はこのお二人の事に干渉してはならぬのだ。しかし主はそれには言及せず、ただ私の問いとも呟きともつかぬ一言にのみ、返答された。

「あれは淋しがっているだけだ。……いや、私が淋しいと思って気を回しているのだろうな。私が逢いにでも行けば、まだまだ働けと追い返される」

言いながら上げた顔は、いつもの不敵に笑う主だった。

「くだらぬ感傷に付き合わせてすまぬな。こんな事では愛想を尽かされる」

そうして馬の腹を蹴り、主は単騎で走り出した。みるみる小さくなる背に、護衛役を仰せつかった私は慌ててそれに従う。ちりと走った胸の痛みは、拳で潰してごまかした。

軍祭酒。あなたの声は、ずっと丞相に響いている。だからどうか。

どこまでも続く大地を、ただひとり駆けてゆく。天より差す陽の光が、主を煌々と照らしていた。


作成日: 2008/09/21

視点の人は、ご想像にお任せします。どちらが好きなのかも。

元々これは漫画用のプロットだったので、短いですね。