「あれは、ちゃんとやっているかな」
名門荀家の中でも最も才覚に溢れているであろう荀ケは、いつも流れるような美しい共通語で話す。品のある所作と流麗な言葉。一つ一つから匂い立つ気品に自然と溜息を漏らしつつ、このお方は私のお義父上なのだという事実に改めて感動を覚えた。
「ええ、とても私によく尽くしてくれています。私には勿体ないひとです」
先日、荀ケの娘を娶って義理の息子となったばかりの陳羣は、腹の内で用意していた返答を努めて冷静に口にした。嘘を吐いているわけではないが、どうしても後ろめたさのようなものを感じてしまう。いたたまれなくなり、荀ケから小さく見える後宮へと、視線をゆっくりと移した。
「本当かな。あれはじゃじゃ馬だったから行き遅れるのではないかと心配していたのだけれど、よほど君が気に入ったようだね」
安心したよと、荀ケが父親の顔を覗かせながらふわりと微笑む。「清流」という単語がこれほどまでにぴったりと合う方はそう居ないだろう。あまり表情の変わらない陳羣も、この時ばかりはつられて笑みを浮かべた。
「文若殿!」
この声は。陳羣の背筋につめたいものが走り、途端に表情を固くした。
「奉孝。どうしたのですか、こんなところまで来て」
ここは政務を扱う尚書台の一角である。司空府に所属しているこの男が、普段このようなところに来る事は決してない。あの長い回廊を走ったのだろうか、息を切らしながら鋭利な眦(まなじり)をきっと荀ケに向けた。
「あんたこそ、執務室に、ちゃんと、いろよ…!」
「郭軍師!」
荀尚書令は文官にとって雲の上のような存在であるにもかかわらず、郭嘉はいつもこのような口を利く。荀ケに対してだけではない、我等が主君である曹操にすら、敬う態度を取らないのである。
郭嘉は自分を非難する陳羣には目もくれず、荀ケに向き直った。
「主公が呼んでいた。至急の案件のようだったから、早く行ってくれ」
「殿の使い走りですか」
「うるさい、護衛以外では俺しかいなかったのだ」
「はいはい、おつかいご苦労様でした」
郭嘉の無礼はいつもの事と、荀ケはさして気にも止めていない風に、いつもの微笑をたたえながらひらひらと手を振って背を向けた。
「郭軍師」
荀ケのいない廊下は途端に空気が重苦しくなった。だが郭嘉がここに居る以上、言わねばならない。
「自分でも気付いているでしょう。その横柄な態度のせいで、たくさんの敵を作っている事に」
息を整えるために欄干(らんかん)に背を預けていた郭嘉は、切れ長の瞳をすいと陳羣に向けた。陳羣も眉を顰めたまま郭嘉を見返す。
「あんたも含めてか」
「あなたがそう思うなら、そうなのかも知れません」
「どっちでもいい、さして変わらん」
どうでも良さそうに視線を投げ出して、長い前髪を鬱陶しそうに掻きあげた。それなら前髪も一緒にまとめればいいのにと思ったが、陳羣は口にしなかった。そんな、世間話をするような間柄ではない。
「まずその言葉遣いを改めなさい。なぜ折角の才能をそんな事で台無しにしてしまうのです」
「俺に指図するな」
人相を悪くしている目を更に吊り上げて、陳羣を睨んだ。強い視線に晒されて、陳羣は無意識に拳を握り締めた。
「俺なぞどうでもいいだろう。暇ならあんたの“お義父上”にまた媚でも売って来ればどうだ」
「私は、媚びる為に荀尚書令さまの娘を娶ったのではありません!」
思わず、半ば悲鳴のような声で叫んでいた。腹が立ったからではない、見透かされたような気がしたからだ。
「じゃあ、地位の地盤固めの為か。そういうところは実に文官らしいな。吐き気がする」
忌々しそうに吐き捨てた郭嘉の藍色がかった瞳は、本人と似合わずどこまでも澄んでいて、そして高潔だった。肩を震わせ、唇を噛み締めて元凶を見据える。それは大層、愛妻を侮辱されて怒りに満ちた夫の姿に見えている事だろう。私はどこまでも卑怯だと思った。思わずにはいられなかった。
「違います、私は……」
媚でも地位の為でもない。だが敬愛する荀ケと親密になりたかったのは事実で、そして娶った娘を愛する事ができていないのもまた事実であった。だがそれを悟られてはいけない。何もかもを知っているかのような藍色へ、動揺を隠しながら必死で見返した。
「別に、あんたの腹の内などどうでもいいがな。ともかく、あんたが何を言おうが主公に訴えようが、俺は誰にも従わん。お互い無駄な労力を割きたくはないだろう」
話しかける事も近寄る事も、全てを拒絶しろと言うのか。私はこんな事でしか、あなたと触れ合えないのに。
「俺が嫌いなら接触しなければいいだろう、あんたも物好きな奴だ。……失礼する」
どこまでも非情な男は、凭れていた欄干から腕を離し、背を向け歩き出す。同じ陣営に所属しているというのに、今生の別れのようだと思った。このまま黙って見送れば、一生このままだ。
「私は、私はあなたが嫌いではありません」
絞り出した声は蚊の鳴くような音にしかならず、随分と貧弱なものだった。
何にも縛られないあなたが羨ましい。私は体面ばかり気にして、遂には言いたい事も碌に口にできなくなってこの有様だ。郭嘉の動きがぴたりと止まった。振り返るかと思ったが、背を向けたまま一言だけ呟いた。
「俺は、あんたが嫌いだ」
呆然と立ち尽くしていたから、郭嘉がいつの間に居なくなったかは分からなかった。頭が痛くて、酷く泣きたい気分だった。なぜ泣きたいのかは自分でもよく分からず、独りきりの廊下で途方に暮れた。
まず仕事に戻らなくては、と思った。そして次に、妻を愛す努力をしなくては、と思った。
内政を取り仕切る荀ケも、軍師として戦に赴く事がある。御史中丞である陳羣もそれに倣い、今も義父と地図を囲んで不得手な軍略を練っている。孫氏全巻が揃った整頓されている荀ケの執務室ほど、策を考案するのに適した場所はない。
「最近、殿へ訴訟していないようだけれど」
ふと、思いついたように荀ケが言った。訴訟と言えば、当然郭嘉の不品行に対するものである。強張った顔を悟られないよう、地図を見つめる角度で俯いた。
「無駄だと本人から言われてしまいまして。それにはっきりと、私が嫌いだとも。更正させる気を失くしてしまいました」
肩を竦め、自嘲の混じった苦笑でしのぐ。荀ケも苦笑するか、もしくは「まったく奉孝は…」と顔を顰めるかで返すと思っていたのだが、義父はいつものように柔らかく微笑んだままだった。
「長文、奉孝は君の目を見てそれを言った?」
「?いいえ、顔を見るのも嫌だと言わんばかりに、背を向けていましたが」
やはりね。そう言って今度はくすくすと笑い出した。
「長文、いい事を教えてあげよう。あの子は昔からそうなんだ。
嘘をつく時だけは、人と目を合わせられないんだよ」
作成日: 2008/02/01
陳羣×郭嘉というか、陳羣←→郭嘉です。(むしろ嘉羣?w)もっと殺伐とさせたかったけれど、これ以上殺伐になると最早びーえるではなくなるので却下。あ、陳羣は受です。受同士。
荀ケ様はGR仕様。GR郭嘉出演の時は基本、他の人々も軍師カードで固まります。