鉄の味を広げながら咳き込んだ口を押さえた手は、鮮やかに染まっていた。
―――――ああ、戦のにおいだ。
長い回廊をふらふらと歩く。日差しが強い、この日照では作物も枯れてしまうだろうか。
蝗の被害からやっと立ち直ったかと思えばこの焼け付くような暑さで、民の事をまるで考えない風でいてその実誰よりも民草の痛みを知る我が君主は、また文官が泣いて止める程の減税を命じるのだろう。己に政治の才はないし、民草の事など正直なところどうでも良い。ただ、兵糧が減って戦ができなくなる事だけは嫌だった。
戦は好きだ。自分の命令一つで戦局が大きく変わる。中でも、今指揮をしている神速と誉れ高い騎馬隊は好きだった。叶うなら、ずっと戦をし続けていたいと思うほどに。
(雨が降ればいい)
すいと手を眩しい光に翳すと、驚くほどその華奢な手は透き通っていて、まるで自分が随分と希薄なものになってしまった気がした。
「あながち気のせいでもないのだろうが」
「―――――何がだ?」
ぽつりと落とした呟きは運悪く、低く響く声の主に拾われてしまったらしい。驚いて寄越してしまった視線を、眉を寄せながら元へと戻した。金色(コンジキ)の具足が陽の光をきらきらと反射している。生きている、と思った。
「あんたには関係のない事だ」
天に伸ばした腕をなるべく自然に見えるよう欄干に乗せて、その手をまたじっと見る。やはり陰においてもその肌は、しろい。
今は機嫌も気分も悪い、これ以上この男と係わっていたくなかった。自分にも分からぬ何事かを口走ってしまいそうで。
「『神速』の隊長が、副将もつけず、この司空府になんの用だ」
あまり口数の多い男ではない。何を考えているのか計りかねるところはあったが、この妙な独り言も所作も、この男にはどうでもいい事で、誰に話すでもなく記憶から抜け落ちるだろう。そう思っていたから、口を開いた事さえ想定外だった。
「昨日、益州から帰還しただろう」
「ああ」
「行軍中、ずっとあなたの顔色が芳しくなかったから、気になった」
「……そのような事の為に?」
自分の知っている、己が武以外は何一つ顧みないはずの将軍からは俄かに信じがたい台詞に、思わず振り向いた。反動で、青の髷掛けがぱさりと肩にかかった。頭一つ分高い位置にある顔は、神妙な顔つきでじっと自分を見ている。
「具合が悪いか」
無駄も飾りもない無骨な言葉だ。しかしその分嘘がなく、真摯な重みがある。
「……あんたがそう思うのなら、そうなのだろう」
「はっきり言ってくれんか。こういうのは不得手だ」
分かっているからこそ、こんな風に返したというに、この男は崇高なまでに実直だった。舌先で騙し合う事が職業病になっているような自分には、それが眩しくひどく好ましいものに思えてしまい、ふ、と聴こえない程度の溜息をついた。
「心の臓を悪くしているらしい」
「…………」
敵将を何百と葬ろうが眉一つ動かさぬ男が、沈痛な面持ちで頭を垂れる。その瞳に憐憫が含まれている気がして、かっと頭に血が上った。元来血の気が多いのだ、だから外にも漏れる。
「俺の病を知って、どうするというのだ。典医に診せて死ぬまで室に篭っていろとでも?」
「軍師どの、」
「冗談じゃない。俺は軍師だ、息絶えるその一時まで!」
瞬間、胸が押し潰されるような痛みが走り、呻きながら蹲った。命令を下す将の前で、このような無様な姿を晒す事だけは嫌だったのに。痛みに視界が歪む中、取り乱しながら自分の名を何度も呼ぶ将軍を見て、ざまあみろと笑った。しかしそれは声にならず、代わりにごぽりと血を吐き出した。
目覚めたら自分の室で牀榻に寝かされていた。燈篭が灯されているから夜なのだろう。首を動かすと、冊書を並べた棚を背凭れに、歴戦の将軍が具足を外し腕を組んでじっと座っていた。
「気付いたか」
自分の視線にすぐ気付いたようで、散乱した竹簡を踏まぬようにと慎重に近寄ってきた。よほど長い時間この部屋に拘束されていたのか、ほっとしたように少しだけ表情を緩めた。
「随分と贅沢な護衛だな」
「……典医を呼んだぞ」
軽口を流したと思えば、とんでもない事を言う。勢いよく起き上がろうとして、また心(シン)に痛みが走り、失敗に終わった。代わりにぎっと唇を噛む。随分と不便な身体になったものだ。
「安心しろ、他の者には見られないようにしておいた。お前の副官にだけは説明しておいたが」
「要らぬことを」
「……いつから放っていた。今更手の施しようがないと言われたぞ」
「早く診せようが同じ事だ。自分の身体は自分が一番よく知っている。放っておいてくれ」
長らく同じ戦場に立ってきて、今が一番話している気がする。それ程、この男とは会話がなかった。一番この将軍が己の意を理解し、策に呑まれる事なく理想の戦果を出すから、長々とした説明も分かり合うための会話も、この将軍に限っては不要だった。
しかし、何故こんなに構うのだ。この男にとっては一介の軍師でしかないこの俺に。
「生きるために足掻いてほしいと願うのは、勝手か」
この耳に届いたのは、今が深い夜だった為か、神経を集中させていた為だろう。大柄な図体にはとても似合わない、それこそ蚊の啼くような音だった。
「……将軍?」
「俺はずっと、あなたの指揮で動きたいのだ」
今まで気付かなかった。組んでいるその武骨な手が、小さく震えている事に。いや、他の色々な事にも気付いてやれなかった。
子供のように震わせている傷だらけの手に、脆弱になってしまった透明な指を這わせた。北方の色合いの濃い鳶色の瞳と目が合う。
「怖いか」
「怖い、あなたを失う事が恐ろしくて、俺は」
「俺も、死ぬのはこわい」
手を握り見つめ合ったまま、「だが、」と続ける。
「人はいずれ死ぬ」
その場所が戦場か牀榻か、それだけだ。
幾度もの死線をかいくぐってきた大きな掌が、折れそうになる程のつよい力で己の手を握り締める。童みたいだと笑おうとしたのに、代わりに雫を一筋垂らしてしまった。
「俺は最期まで馬に乗って、あんたを一番上手く使ってやるから」
瞼を降ろすその瞬間まで。だから。
「だからもう、泣くな」
男前が台無しだと続けようとして、自分も大概ぐちゃぐちゃになっているだろうと思ってやめた。五つ年上のはずの男は鼻水を啜りながら無言で何度も頷くばかりで、でかい息子でも持ったような気さえした。
「軍師、どの」
「なんだ」
「俺はずっと、ずっとあなただけ見てきたのだ」
ぼろぼろとかさついた頬を転がり落ちる水滴を親指で拭ってやりながら、「知っている」とだけ返してやった。多分、ずっと気付かない振りをし続けてきた。まさか、このような形で想われているとは考えもしなかったが。
明日まだ生きていたら、「俺もだ」と言ってやろう。
作成日: 2008/05/08
もっとドライなものを書きたかったハズなのに、何故にこんなウエットに…。