昔々、あるお屋敷に男の双子が生まれました。しかしその双子は、不思議な双子でありました。
一人は父母と同じ黒髪と黒い瞳を持っておりましたが、もう一人は同じ黒髪をしていながら、父母とは似ても似つかぬ青い瞳をしていたのです。
奇異なるその瞳を父母は恐れ、怪異とみなして密かにその青い瞳を持つ子供を殺してしまおうとさえ致しました。
しかし、黒髪の子供がなんとしても青い瞳の子供の手を離さず、引き離す事さえ出来ずに居ました。そこで、占い師が呼ばれて二人の未来が占われました。
占い師は言いました。
一人の命を二つに割って、この子等は生まれた、と。故に二人とも普通の人間の半分の寿命しか持たぬ、と。
そうして、今青い瞳の子供を殺せば、寿命が黒い瞳の子供へと戻って平凡だが長生きが出来るであろう。しかしもし、青い瞳の子供を生かすのであれば。
黒い瞳の子供に降りかかる災いを青い瞳の子供が引き受けて、寿命は短いがこの世の栄華を極めるであろう、と。
母は、平凡でも構わぬから、黒い瞳の子供の長寿を願いました。
しかし父は、子の手にする栄華ならば自分も恩恵に預かれるだろうと、欲に目が眩み、青い瞳の子供を閉じ込めて育てようと決めました。
そうして、青い瞳の子供は日の光も射さぬ場所に閉じ込められました。さらに青い瞳の子が酷い目にあえばあうほど、黒い瞳の子供が幸せになれると信じられていました。
物心がついた時、賢く育った黒い瞳の子供は、青い瞳の子供の存在を知りました。
黒い瞳の子供は、青い瞳の子供に会いに行きました。
冷たく暗い暗闇の中で光さえ知らずに育ち、災厄を与え続けられていた青い瞳の子供は、もはや人ではありませんでした。
けれども、分かたれた半身である黒い瞳の子供が、青い瞳の子供の中の“人”を呼び覚ましました。
泣く事さえ知らなかった青い瞳の子供の代わりに、黒い瞳の子供が声を上げて泣き出したのです。その涙は、決して青い瞳の子供に怯えての涙ではありませんでした。
黒い瞳の子供は、青い瞳の子供を抱き締めて、青い瞳の子供の代わりに泣き続けたのです。
そうして、黒い瞳の子供は、青い瞳の子供を守ろうとしました。
幼い内は何も出来なかったけれど、年を重ね、黒い瞳の子供が力を手にしていくと共に、青い瞳の子供もまた、力を得ていきました。
そうして、幾年かが過ぎて、黒い瞳の青年が仕官する日、青い目の青年は旅に出ました。
災厄の形代として生を受けたのならば、その災厄を糧としてお前の役に立ちたいと、青い瞳の青年は言いました。望まずして蓄えられたものですが、確かに災厄は青い瞳の青年の身の内に宿っておりました。
後に魏王と称される覇者に見出された黒い瞳の青年もまた、栄華への階段を上り始めていました。けれど黒い瞳の青年は、その栄華が誰によってもたらされたものなのか、決して忘れた事はありませんでした。
幸せを感じれば、お前を守る力が薄れるから、と。青い瞳の青年は、災厄以外のものを受け取ろうとしません。
それほどまでに、強く自分を思っている青い瞳の青年に、黒い瞳の青年はどうしても何かしたくてなりません。
だから“名前”を送りました。
自分達は、元は一つであったものが分かたれた半身同士なのだから。
だから、同じ名を名乗ろう、と。
どうしても譲らない黒い瞳の青年にとうとう根負けして、青い瞳の青年は“名前”を受け取りました。
性は郭、名は嘉。字は、奉孝。
それが、二人の名前です。
「下手糞」
全く、これが人間の文字か?
読まされる方の身にもなってみろと、常々言ってやっているのだが、相変わらず理解が出来んらしい。
「文字と言うより、まるで断末魔の爪痕だな。お前の手は本当に人間の手をしているのか?頭の中身だけでなく、手まで猿か?」
差し出された木簡を、容赦なく顔面目がけて投げつけてやる。
もちろん、相手は顔の前で難なく受け止める。解ってはいたが、それが余計に癪に障る。
「書き直しだ。それから、茶を入れて来い!」
言葉まで投げつけるように言ってやったのに、嬉しそうに駆け出す様子が更に腹が立つ。
ああもう、何から何まで腹が立つというのに。
………お前と居るのが、不愉快じゃない自分に、一番腹が立つ。
手紙を書けと命じると、戸惑ったような表情を見せて、俺と木簡とを窺うように見比べている。
その顔が、犬が飛びつきたいのを我慢している様子とそっくりで、内心は喜んでいるのが丸見えだ。
俺としては到底読むに耐えない字を書くお前になんぞ頼みたくは無いが、他に人が居ないのだから仕方が無い。それに、お前に書かせる手紙は、宛名の人物ではなく傍らの者が読むだろうから、お前の汚い字でも構うまい。
宛名の人物が読むのであれば、断固お前になんぞ書かせん。お前の字なんぞ目の穢れだ。
散々、そういった前置きを聞かせてから、渋々もう一度命令した。
手紙を書け、と。
長い手紙では無いのだから。
それに、俺の腕はもう、筆を握れぬのだから……。
「幸せだ、と、書いてくれ」
代筆していた手が、止まる。
筆を止めたまま、俺を見る。
「良いのか?」
零れるように紡がれた言葉は、かすかに掠れている。
「ああ、もう、良いんだ」
そう返してやると、表情を隠していたはずの相手が、失敗したように泣きそうな表情を覗かせた。
「泣くな、馬鹿猿」
「泣いてない」
「だったら、素直に喜べ」
残酷な言葉だ、と、珍しく自分で思った。自重の笑みが思わず漏れると、筆を持った猿が不器用に笑う。
泣きそうなのに、無理に笑う顔を見て、こっちの視界が滲む。
途端に、猿が慌てた表情になって筆を置いた。手を止めるなと叱るより先に、抱きつかれた。
全く、獣は動きが素早い。
「お前が幸せで、嬉しい」
俺を抱き締めたまま、俺の肩に顔を埋めてくぐもった声で告げられる。鼻声を誤魔化すのは許してやるが、鼻水をなすりつけたら裸に剥いて川に沈めてやる。
………そう思ったが、もはやそれを実行出来る力が無いのは解っている。
「どうせ鼻水をなすりつけるなら、いっそ服より肌にしろ。洗濯より、体を拭く方が後始末が楽だ」
うざったいデカイ頭を撫でて言ってやると、頷かれた。
………遠慮と言う言葉を知らんな。全く、無知で馬鹿で猿で獣で、救い難いお前が嫌いだ。
「俺は、お前が嫌いだ」
はっきりと口にした回数は、きっと夜空の星ほどにもなるだろう。
「俺は、お前が好きだ」
あまりに聞かされ過ぎて、もはやコイツにとっては挨拶のようにしか思えていないらしい。その点では、確かに俺が失敗している。もっと効果的に言ってやるべきだった。
「嫌いだ」
「好きだ」
「俺は、自分も嫌いだ」
押し問答の水掛け論をして居ても埒が明かないので、俺はついでに紛れ込ませる。
嫌いだ。
お前も俺も、こんな世界も。
どうせ聞いちゃ居ないだろうとたかを括っていた俺の唇を、唇で封じられる。
お前も、俺に黙れと言うのか。お前まで、俺に何も言わせてくれないのか。
「俺は、郭嘉が好きだ」
世界への憎悪ばかり垂れ流す俺の口を、お前は自分の唇で塞いで。俺の憎悪を吸い取るつもりなのか。
馬鹿みたいに笑うお前に、救われる自分が、やっぱり嫌いだった………。
けれど、大嫌いなお前のおかげで、俺はこの手紙を残せる。滅べば良いとさえ願ったこの世界で、唯一好きになれた大切な存在へ、俺はようやく本心を伝えられる。
これでどうか、許されて欲しい。
恵まれた生ではなかったけれど、俺は後悔をせずに済んだ。
認めてはならなかった言葉も、今なら言える。俺は今、幸せだよ。
お前達のおかげで………。
手紙が、届いたと知らされて。届いたと知らせてくれたその人に、その手紙を読んでもらう様に頼みました。
もはやこの目は、用を成さなくなっていたので……。
手紙をくれた方も、私の体の事は良く解っておられたのでしょう。手紙を開いた方が、暫し絶句なさる気配を感じました。
「………あの?」
「…あ、ああ…いや……その…」
「兄上の字では、無いのですね?」
「ああ」
苦笑の混じる答えと共に、温もりが私に近づいたのを感じます。傍らを軽く手で叩いてみますれば、かすかに寝台がきしみ、彼の方が隣に腰掛けてくれたのが解りました。
私は、彼の方を探して手を伸ばして見ました。すると、彼の方から包むように私を抱き寄せてくださいました。
「手紙は、読めますでしょうか?」
兄の傍らにある方は、とても字が下手で人に見せられないと兄が嘆いていたのを思い出して。独りでに笑いがこみ上げて参ります。本当に兄は何時も散々にその方の悪口ばかりを書いておられましたが、それだけ悪口を書かれるという事は、とても好いておられる証でした。
だって、兄は嫌いな相手には全く関心を寄せぬ人でしたから。
「努力しましょう」
真面目に返してくれた彼の方の声にも、穏やかな柔らかさが感じられて、私はやはり零れだしてしまう笑いを隠そうと口もとに手を当てました。笑みを隠すのは、もう癖になっておりましたから。
しかしその手が、そっと外されてしまいました。
「………隠さずに、居てください」
彼の方からそっと頼まれて、私は頬が熱くなるのを感じました。それでも、私は頷いて彼の方の手を握り、もう口元を隠さぬようにと思い定めました。
だって…。
だってもう、時間が無いのですから……。
兄からの手紙には、幸せだと綴られていました。
兄も、時間が無いのを知っているのです。だから、その言葉を……。
しかし、私には兄の言葉が嘘でない事も解っています。何故ならば、私達は元は一つであった半身同士なのですから。
何も映さぬ目であっても、潤むのを感じました。それを不思議に思った時にはもう、熱い流れがあふれ出しておりました。
途端に、少しかさついた大きな手が私の頬を拭ってくださるのを感じました。
「兄君は、嘘を?」
心配そうに問うてくださる彼の方へ、私は左右に首を振って見せます。本当は、彼の方の目を見たいのですが、千里眼とうたわれたこの目にはもう何も映りません。茫洋とした眼差しを向けられるよりはと、私が目を閉じると、私の気持ちに敏い彼の方が深く抱き締めてくださいました。
「ようやくに、兄上も本当の気持ちを教えてくださいました」
そしてそれは、時間が無い事を表すと、彼の方にも伝わったのでしょう。私の体を抱く腕に、ほんの僅かに力がこもったのを、感じました。
私からも、彼の方の衣服を握りました。初めて私から、彼の方に縋りました。
なんと愚かな事でしょう。この方に私は何も差し上げる事が出来ないのに、今更縋ってしまうなんて。
私が慌てて手を離すと、さらに彼の方の私を抱く腕に力がこもったのを感じました。
「貴方を…教えてください。罪を許された貴方の、御本心を……」
彼の方から紡がれた言葉は、まるで縋るように弱くて。私にはもう、振り解けませんでした……。
私は、最後の罪を重ねます。私は、彼の方の背を抱いて頷きました。
「辛かったら、必ず教えてください」
彼の方からのお言葉に、私は恥ずかしさに逃げ出したくなる思いを必死に我慢いたしました。
そうして彼の方は、とてもとても優しくしてくださいました。いいえ、彼の方が優しくなかった事はありませんでした。ただ、私が、彼の方を受け入れられなかっただけで。
私は、罪人でしたから。
私は、幸せになってはならぬ者でしたから。
そうして、私は今、最後の罪を重ねます。彼の方の思いに、私は甘えてしまいます。
罪深き私に許しはいりません。ただ、彼の方には何の咎もありません。
どうか、どうか彼の方は、真の幸いに巡り合えますように………。
認めてはならなかった言葉も、今なら言ってしまっても良いのでしょうか。
私は今、幸せです。
兄は許してくれましたが、私は新たに罪を重ねました。貴方を悲しませると解っていても、貴方の腕の中で果てる事に喜びを感じています。
そうして、あの優しい兄がもう苦しまずに済む事が、何よりも嬉しいと感じています。
兄上、私達は幸せだったのですね……。
「………俺は、人間じゃない」
あいつは、自らを人ではなく形代だと言った。
形代の意味が解らなくて、散々にこき下ろされて馬鹿にされたけれど…。それも凄く楽しそうに…。
それでも、身代わりだと吐き捨てるように呟いた顔が、忘れられなかった。
あいつが自分の所為で城が滅ぶと言い出した時は、気が触れたのかと少し危なっかしく思ったが。…無論、黙ってたのに考えてた事がばれて、顎が腫れあがるほど殴られたけど…。
細い体のどこに、こんな力があるんだって馬鹿力で。口は悪いし、手は早いし、目つき悪いし…。
それでも、目が離せなかった。
綺麗だと、思ったから。
青い目も、触れたら切れそうな張り詰めた雰囲気も、誰も寄せ付けない苛烈さも、綺麗だと思った。
………なんだろなぁ、ずぶ濡れの虎みたいな感じで放っておけないっつーか。
一度本人に直接そう言ったら、椅子で殴られたけど。今はずぶ濡れでも、乾けばちゃんと虎なんだから、俺は最上級の褒め言葉のつもりだったのに。
「虎の腸に湧く、蛆だ」
あいつは自分を親指で指し示して、笑ってそう言った。その笑いがたまらなくて、俺はあいつを押し倒していた。歯を折られても、頭を割られても、あいつにそんな笑い方させたくなかったから。
あいつは“使え”と言った。“抱け”じゃなくて、使え、と。それもたまらなかった。聞かされたあいつの過去は、俺の周りじゃ珍しくも無い話だったが、俺がどうしても慣れられなかった類の話で。
だから、あいつの誘いに乗った。
あいつを抱くのと引き換えに、あいつを守ると誓った。病気以外では死にたくないと言ったあいつの為に、他の誰にも傷一つつけさせなかった。
抱かなくても、守ったんだけど。それはあいつが許さなかったし、俺も我慢出来なかったし…。
ただ、殴られても蹴られても、どうしても何があっても言い続けた。
お前は、“綺麗だ”って。
穢れてなんか居ない。汚れてなんて居ない。
お前は、お前の自慢の弟の前に真っ直ぐ胸張って立てる男だって、それだけは、絶対譲れなかった。
………弟が一番だったなぁ。あいつは弟の身代わりにされた癖に、弟があいつの代わりに泣くのを心配ばかりしてやがった。
まあ、傍に居させてもらえたし、幸せだって言ってもらえたから、俺はそれで良いけどさ。
最後に会わせてやりたかったけど、どうしてもそこだけは素直にならなかったから、俺が会わせてやるよ。
だからさ、もう無理はすんなよ。もう、我慢しなくて良いんだぞ。
好きなだけ自分で泣いて、良いんだぞ。
お前の涙も“綺麗だった”よ。
どうか、願いがお前に届くなら。
お前がお前の涙を流せるように。お前がお前を恥じぬように。
お前は本当に、綺麗なのだから………。
罪人なのだと、漏らされた言葉が今も耳に残る。
戦の時も宴の時も、凪いだ湖のように静かな面のままで居る事が、目を引いた。
沈着冷静な判断を求められる軍師ゆえに、感情すらも封じているのかと思っていたが。仕える主にその人が酔い潰された折に、戯れでその表情の無さを問いかけて見れば。
罪人だから、自分を許してはいけないのだと、返された。
その日から、その人が気がかりでならなくなった。
頑なに自らの事は語ろうとしなかったが、本人が語らずとも噂と言う形で色々と耳に入る。
そうして、兄を形代にして災厄を逃れていると、風の噂に聞いた。兄を身代わりにしている罪悪感が、自らを罪人と呼ばせるのだろうと、真偽を確かめる前から妙にしっくりと納得してしまっていた。
ついに、真偽を尋ねられずに終ってしまったが…。
尋ねれば、話してくれただろうか。その胸を塞ぐ重荷を、分けてくれただろうか…。
傷に触れぬようにと慎重になり過ぎて、肝心の何かにも触れられずに居たような気がして。この身は、あの人の為に何か出来ていたのだろうか。
あの人を胸に思い起こす度に微かな、後悔に似た不安がよぎる。
それでも、あの人がこの腕の中で絶えた事を喜ぶ思いも、確かにある。他の誰かの腕の中ではなく、ましてや硬い寝台の上でもなく、あれほど才を花開かせた戦場でもなく。
あの人は、この腕の中を選んでくれた。
「兄の墓を、探してくださいますか」
自分が死んだらと、あの人は口にはしなかった。それでも、あの人の時間が短いのを解っていると伝わっていたのだろう。そんな願いを託されたのだから。
「探すだけで、良いですから」
控えめに過ぎるその願いは、思えばあの人からの私的な、最初で最後の願いだったな。
頷くと、少女のように微笑まれたので、思わず狼狽したのをつい昨日の事のように思い出せる。
祭れとも、訪ねろとも言われずに、ただ探してもらえたらと言うだけの願い。それが決して兄を軽んじての理由では無いのは、普段の様子で知れる。
兄の手紙を読み返す時だけは、この人の表情を殺したはずの面が、雪解けの訪れた野原のように華やぐのだ。思わず、軽い嫉妬を覚えてしまうほどに…。
その気持ちを悟られていたのだろうかと、少し恥じ入った。だから、この人はこんなにも遠慮されるのだろうかと。そこで、罪悪感を紛らわせる為に、あの人の髪をもらった。
いずれ兄の墓が解れば、そこへその髪を埋葬すると約束して。
その折に、二人は一つであったと、聞いた。
一人の生を、二つに分けて生まれた半身同士だから、どれほど離れた場所にあろうと、兄弟は必ず同じ日に死ぬのだと。
多くを語らぬあの人が、自らを語る言葉を、ただ聞いていた。
何かを尋ねてあの人が口ごもってしまうのが怖くて、ただ聞いていた。
本当は、尋ねるべきだったろうか。尋ねて、あの人のしまいこんだ辛さを吐き出させてやるべきだったのか。
残された黒髪を手に、何時の間にかまた後悔ばかりが苦くこみ上げる。
幸せだと伝えてくれたが、それはあの人の優しさでしかなかったのだろうか。
それでも、私はあの人の傍に居られて確かに幸せだった。
ああどうか、この思いを伝える術を。
あの人に罪は無い。あの人は罪人ではない。あの人が罪人だというならば、生まれ落ちる事そのものが罪だというのか。
だとしても、赦そう。あの人の全てを、赦そう。
どうか伝えてくれ。
貴方は赦されていると…。
その日は、小雨がけぶる肌寒い日だった。
細かな雨は殆ど霧と化して、ぼうっと視界をかすませていた。目を凝らしても、さほど遠くまでは見えず、薄暗い曇天に引きずられるように気分も沈みがちであったので。
黒くぼうっとした塊が視界に入るまで、互いに気付かずに居た。
目視出来る位置で、初めて互いの存在に気付き、ほぼ同時に足を止めた。
「……すまんが」
先に口を開いた方からの言葉は、遠慮がちな問いかけだった。
「何だ?」
「貞侯というのは、元は郭嘉と言う名前だったのか?」
「………」
不躾な質問に、問いかけられた方が暫し言葉を失った。
「違うのか?」
不自然な間に、問いを重ねられて。問いかけられた側が、問いかけた側に近づいた。
「………違わぬ。貞侯は郭軍祭酒のおくり名だ、だからその墓は郭軍祭酒の墓だ」
ゆっくりと近づいて互いに相手の姿をはっきりと認めると、答えた側は口元に苦笑を浮かべた。
「蚩尤、と、名乗っていたな。久しぶりだな」
穏やかに語りかければ、先程から問いかけてきていた相手が破顔した。
「おう、覚えていてくれたのか。鬼神殿、元気そうだな」
その昔、蚩尤と名乗った男からも、鬼神と呼んだ男に自分から近づき親しげに声をかけてきた。
二人は、同じ名と字を持つ。二人が愛した半身同士と同じに。
名を張遼、字を文遠。それが、二人の男の名前。
そしてこの二人の愛した者の名が、郭嘉。
「これを、一緒に埋めてやろうと思ってな」
蚩尤はごそごそと懐から包みを取り出した。上辺は汚い包みだったたが、中から取り出されたのはかなり高価な錦の布に包まれた、髪、だった。
「兄君の、髪か」
「ああ、今頃向こうで仲良くしているだろうが。まあ、なんだ、けじめみたいなもんだ」
人懐っこそうに笑う蚩尤を、鬼神は穏やかな眼差しで見つめる。
死後の世界など、不確かでしかない。それよりは、分かり易い方法で二人を一緒に居させてやりたいという、蚩尤の気持ちが鬼神にも解るから。
「それは良い。時に、兄君の墓はどうした?」
蚩尤に問いかけながら、鬼神も懐から包みを取り出した。これは上物の錦の袋で、中身はやはり高価な絹に包まれた、髪、である。
「弟の、か?」
「ああ、出来れば直に参って御挨拶したいのだが。あまり勝手に出歩けぬのでな、遠ければ貴殿に頼もうと思うが」
不自由な身だ、と苦笑する鬼神を前に、蚩尤が些か困ったように眉を寄せてなにやら考えこむ表情になった。
「……墓を、作らなかったのか?」
ふと、死体は川にでも流して欲しいと、あの兄ならば言いそうだと思って鬼神が問う。だが、さらに考えこむ様子で微かに唸ると、蚩尤はがりがりと自分の頭を掻いた。
「………うーん、アンタなら構わんだろう」
苦笑とも気恥ずかしがってるとも取れる微笑を浮かべると、蚩尤は親指で自分の胸を指し示す。
「兄の郭嘉は、俺が食っちまったから、墓は無いんだ」
あまりにもあっさりと言われて、鬼神はまたも言葉を失った。僅かに目を見開き、きょとんとしたような表情で暫く蚩尤を見つめて。
「………食べた、だと?」
ようやくに、何処か呆けた調子で鬼神が尋ね返すと、蚩尤がはっきりと頷く。
「骨は、どうした?」
続けられたのが、現実的な質問であったので、蚩尤は嫌がられているのかどうかが解らずに、やや小首を傾げて答える。
「焼いてから砕いて粉にして、食べた。髪も、焼いて灰にして少し食べたが、ちゃんと殆どを残したぞ?」
食べ残しを持って来た訳では無いと主張したいようで、蚩尤は上目遣いにもそもそと弁解のように弱く告げる。
徐々に言われた意味を理解した鬼神は、眩暈を堪えるように額に手を当てて俯くと、長い吐息を吐き出した。そして、肩の力を抜いて、気を取り直した様子で顔を上げる。
「兄君が望んだのか?」
「いや、まあ、うん……嫌がっては居たんだが。最後には好きにしろって言ってくれたし」
嫌がりながらも、ほだされて渋々ながら承諾してしまった兄の姿が、鬼神の脳裏にありありと浮かぶようだった。
「………何故?」
ようやく、根本的な問いを、鬼神は口に出来た。蚩尤は、へらりと柔らかく笑みを浮かべる。
「だって、何も知らずに逝っちまったからさ。これから俺が、色んなものを見せてやろうと思って」
ああ、と、腑に落ちた様子で鬼神も蚩尤につられた様に柔らかな笑みを浮かべた。
自らの罪に怯えて自らを閉じてしまった弟以上に、兄は物理的に知る機会を奪われていた事に思い至ったからだ。弟の災厄を引き受けさせられる為に、兄は閉じ込められて育てられたのだと、噂には聞いていた。そしてそれが事実なのも、目の辺りにした兄の細さから鬼神自身が感じ取っていた。弟に、直に確かめた事は無かったが。
「では、これを頼む」
鬼神は手にしていた髪を絹に包みなおし、再び錦の袋に入れて蚩尤へと差し出す。
「ああ、じゃ、アンタはこれを頼む」
蚩尤は、錦の布に髪を包みなおして、そのまま鬼神に差し出す。
鬼神は錦の包みを受け取り、蚩尤は錦の袋を受け取り、自らの持っていた古びた袋の中に入れて。二人はどちらとも無く、しっかりと確かめ合うように頷きあった。
「じゃあな」
蚩尤は、笑って鬼神に背を向けた。
「もう行くのか?酒でもどうだ?」
些か驚いた様子で鬼神が問えば、振り向いた蚩尤が決まり悪げに苦笑する。
「墓に護衛が居るとは知らなかったもんで、殴り倒しちまったからな。起きる前に逃げておく」
「………それでは仕方ないな」
蚩尤らしいと笑って、鬼神も納得した様子で引き止めるのは諦めた。だが、別の言葉を続ける。
「いつか、また飲もう」
「ああ、楽しみにしている」
頷いた蚩尤が、佇む鬼神の前から霧の中へと消えていった。黒い影が霧に飲み込まれても、暫くその方向を鬼神は眺めていた。
そうして、鬼神は手に残された錦の包みに目を落す。
髪は同じ色なのだと、嬉しそうな微笑が胸に蘇る。
ならば、この髪も実は……。
髪を焼いた灰を飲み込んで、願う。
どうかもう離れる事の無いように。どうかこれからも共に在れるようにと、強く願った。
風助さまより 下賜日: 2009/01/21
相互リンク記念SSを戴けるとの事で、「SRRかRGRを!」と鼻息荒くリクエストしたら、こんなにも素敵すぎる超大作を…!!いいのか私!拙宅の双子設定を使っていただけて、すごく嬉しかったです。また、脳内妄想していたネタと所々リンクしていて、ニヤニヤしたり(笑)
風助さん、ありがとうございました!!