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盃の闇

このところよく酒を飲み交わすようになった。許されるのだろうか。互いに多忙な身である。

世は泰平から程遠く、血と炎の赤が染める各地で戦乱はますます猛る。武人である俺、軍師であるあなたはそのさ中でこの身を摩耗させていくことこそが己の意味あり、こうして外界の激動から隔離されたように狭く閉ざされた静かなところで穏やかに過ごしているなど浮いているのではないか。

今、俺たち二人の目前にも炎の赤がある。酷く小さくて頼りないが、見た印象に反して存外温かだ。これが戦場の狂気じみた強大な熱い化け物と同じものだとは。揺らめく灯りの根本では熱に溶かされ蝋が一滴、また一滴と垂れ流れ落ちて重なる。役目を終えて不細工な姿で冷えてしまった蝋。あなたにも見えているだろうか。これは俺たち駆逐に生きる者が安穏の内に浪費した命なのだ。

酒が匂う。ここではあなたの好む香は薫らないが代わりに腐臭や生々しい鉄の臭いが立ち昇る事もない。盃に張る水面は波立つことを知らず、この薄暗くとも優しい部屋を映して綺麗だ。

いかがであろう。あなたも暗がりの向こうから顔を見せてはくれぬか。こんなにも快い夜なのだ。

応えを求めて向かいの盃に酒を満たす。もどかしさからだろうか、過剰に注いだそれは盃の円から溢れ出してそこに添えられていた白く長い指を伝い手首まで濡らしてしまった。これはいけない。またあなたの機嫌を損ねただろうか。今宵も俺の方を向いてくれないのだろうか。痩せた手を取って粗相を舐める。俺の舌と酒と、どちらで濡れるのが汚いのか、あなたは答えてくれるだろうか。

夜は何も見えないから困る。朝がくればここに取り残されているのはいつでも俺一人なのである。明け方の風に撫でられ、寒い思いをしながら俺はいつでも一人で目覚めるのである。せめて今だけでも墨色の瞳を見せて欲しい。何故に夜は黒いのだ。あなたを溶かして、夜の闇は何も見せてくれなくて焦れる。

映してはくれないだろうか。盃に、あなたの顔を。こんなにも快い夜ではないか。

気が利かんなどと腹を立てられないようにと再び彼の盃を満たした。再び淵から溢れた。酒が細い指先を洗い流す。すまなかった。だが血が通っていることを疑いたくなる白い指をもう一度舐めるのは躊躇われる。やはりあなたの潔い白に俺の舌が這うのは良くないのではないか。

ところで、あなたは一向に愉快そうな様子を見せることが無いというのに、毎夜毎夜律儀に俺の相手をしてくれる。丞相からお声が掛かることはもう無いのだろうか。あなたの手に赤い痕を見なくなって久しいが。

丞相は飽きたのか、この人に。もう彼は丞相の褥に登らないのか。

ならば良い。そちらの方が良い。あなたは丞相と同じ場所で眠った名誉を手にしたまま、後は毎夜ここで糧にもならない平穏に心を休めればよろしいのだ。あなたは笑ってくれないが、ここへ通うということは俺のことも嫌いではないのだろう。

端の方だけ何とか灯りに照らされた向かいの盃の中身は依然夜の黒を映したまま整然としている。

俺を厭うのでなければ、こちらに体を寄せないか。

この盃にもっと酒が満ちれば映るものもあるだろう。闇に隠れて半分も淵が見えなくなったそれに三度注ぎ足してやると滝のように溢れた酒はついに俺の手元にある枯れた盃近くまで広がった。

いつかあなたに話したことがある。あなたの手が好きだと。我々のように戦場を駆ける者を巧く動かす為によく働く綺麗なあなたの手が好きだと。あなたは怪訝な顔をした。分かっていただきたい。この手を取る為に俺は何度でもここを出て戦い、何度でも生きて戻ってくるのだ。あなたの軍略と共に。

そんなことを言ったからか、体ごとこちらを向いてくれはしないこの人も毎夜手だけは差し出してくれる。

今や逢瀬といえば専ら夜が訪れた時で、あなたの声を長らく聞いていない。体の具合はいかがであろうか。手を見れば吐いた血の赤に汚れることもなく白い。こうして共に酒を飲むことができるのだから、辛い時を抜けて随分楽になったのだろう。俺にとっても喜ばしいことだ。

思えば、しがらみや艱難辛苦を逃れるようにして俺たちはこの暗く静かな安らぎを手に入れたのだ。ここに悲しいことが何一つ届かないというのなら、俺もあなたも自分の立場を、意味を忘却してこの時間に摩耗していくのも悪くないかもしれない。

蝋燭はもう殆ど長さを残していない。火は照らす範囲をすっかり窄(すぼ)めてあなたの顔や姿どころか手すらどこにあるのか分からない。今宵は終いだ。明日の夜までの別れだ。闇がいけない。暗くては何も見えない。だが、暗くならないことにはあなたに逢えない。皮肉なものだ。

せめて最後に、あなたのこの手に縋らせてくれ。

冷たい手を取って口付ける。唇に当たるあなたの手は、疲れてしまったのだろうか、質量も感じなければ皮膚の滑らかさや肉の弾力を感じないほどに硬い。

やがて蝋が尽き、灯りは絶えた。

おやすみなさい。

こうして俺はまた、たった一人で目覚めるのだろう。

ああ、それにしても。

どうしてあなたの姿はどこにも見付からないのだろうか。


佐月さまより 下賜日: 2008/10/21

私の病み遼郭妄想があまりに美しい文字となってそのまま具現化されていたので、彼女はエスパーかと思いました。さすがツボを心得ていらっしゃる…!素敵すぎて、もう…言葉もありません。

お好きな遼郭でとの事でしたので、SRRで妄想しました…☆佐月さん、ありがとうございました!!