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さいご

頭痛が日増しに強くなってゆくのを感じる。

この痛みとも何十年来の付き合いだが、未だ慣れない。ある時、若き帝に問うた事がある。これも呪いなのかと。帝は静かに「それはおまえの弱さだ」と言った。だから強くあろうとした。どの群雄よりも強く、この中原で唯一の英傑に。そしてその結果がこれかと、曹操は寝台に横たわりながら力なく嗤った。もう、動く気力も残っていない。

帝を擁するは即ち、天を掴む事。天と唯一直接通じられる帝は、天にさえ祈ればどのような願いも叶えられるという。例えそれが禁忌であっても、法則を捻じ曲げたものであっても。だから曹操は、躊躇なく帝に膝を折った。

「どうか私の願いを」

玉座に腰掛けた帝は、恭しく拱手する曹操を冷やかに見下ろしながら吐き捨てた。

「おまえは自力で何もかもを手に入れた。これ以上望むものがあるというのか」

「恐れながら、私の努力ではどのようにもならぬ事もございます」

「朕はおまえによって生かされている。好きに言うがいい、おまえの望みとやらを」

だだ広い王の間に乾いた音が冷たく響く。曹操は皮肉げに放り投げた言には触れないまま、面をあげて灰色がかった双眸を真直ぐに帝へ向け頷いた。

「全ての民の幸福を。そして……私の大切な者たちが、皆老いず、死なぬ世界を」

帝は想定外の応えに目を瞠り、ややあって秀麗な眉宇を顰め小さく息を吐いた。

「残念だが、朕の力は全人民にまで届かぬ。できるなら既に手を尽くしておる。蝗の営みも日照も止められなんだ。……だが、後者ならば恐らく叶えられよう」

「ありがたき幸せ」

「だが、それは世の摂理を無視した願いだ。必ず何処かに歪みが生じる。それは呪いという形でおまえに降りかかるだろう。それでも他の不死を望むか」

「はい」

微塵も邪なものを感じさせぬ、驚くほどに澄み渡った声と瞳。帝はひとたび目を伏せ、そして立ち上がった。

「……分かった」

ただし。帝は振り返らぬまま、一人呟くように口にした。

「おまえの最も大切な者には、その願いは届かぬだろう」

独り残された曹操は人知れず笑みを象り、長い髪を靡かせ踵を返した。

「私以上に大切な者など、居りはせぬ」

“最も大切な者”は他でもない私だ。己の命より大事な者など現れぬし作らぬ。だから、何の問題もない。

だから、誰も死ぬな。誰も。

叫ぶように、哭くように、祈る。

「との」

どのような惨状にも眉ひとつ動かさぬまま、采配で戦場を支配する冷徹な軍師だと、この青年を知らぬ者は言う。しかし牀榻に座り向かい合う郭嘉は、僅かに甘さを含んだ声で曹操を呼び、そして穏やかに微笑んだ。

「うん?」

応えるように夜目にも分かる白皙に指を滑らせ、息が触れる程に顔を近づけた。男とは思えぬほどの雪の如き白の柔肌が、微かに朱を差す。何度逢瀬を重ねても変わる事のない、生娘のように初心な郭嘉を、曹操は随分と気に入っていた。

あれから何年経っただろうか。本当に誰一人死なず、また誰もが躯に齢を刻む事をやめた。そうだ、それで良い。老いは才を曇らせ、死は全てを無にしてしまう。例え理を乱しても、自分の為に失う命があって欲しくはなかった。黒曜石の瞳を曹操に向ける郭嘉もまた、仕官し立ての若い姿のまま、変わらぬ瑞々しい才を放ち続けている。だからこの蜜月も永遠に続くのだ、この私が息絶えるまで。

しかし郭嘉は、優しい音色のまま残酷な未来を告げた。

「私はもう、長くありませぬ」

滑らかな頬を撫でる指が、石に変えられたかのように止まった。瞠目した眸は尚も穏やかに笑みを浮かべる郭嘉を捉えている。

「……そんな、馬鹿な」

そのようなこと、あるはずがない。無意識に首を横に振り、夜の薄墨を零した空色の髪を縺れさせた。郭嘉の細い指が彼の掌を包み、そうして曹操は初めて自分が震えている事に気付く。しかし止めようがなかった。幼子の駄々のように首を振り続ける曹操は、君主としての威厳も矜持も最早どこにもない、ただの童だった。

「との」

慈しむように撫でる、力を込めれば簡単に音を立てて折れるであろう細い手に、縋りつく。思わず力の限り握り締めてしまったのに、その指は思いの外強くしなやかだった。

「私は天に願ったのだ。誰も老いず、死なぬ世界を。だからおまえも死なぬ。死ぬはずがない」

誰にも口にしなかった天への祈りを、郭嘉は驚きもせず粛々と受け入れた。皆、薄々感づいてはいたのだ。自らが老いぬ理由を、死兆星が見えぬわけを。そして、我らが君主が皆の進言を拒否してまで、王にならぬ真意を。

曹操はうわ言のように「嘘だ」と繰り返した。私は確かに願い、それは叶えられたはずだ。現に誰ひとりとて灯を消してはいないし、私の躯も一向に衰えぬ。震える曹操を、郭嘉はあやすようにそっと抱いた。たかだか、数多いる臣下の内の一人でしかない者の死に、こんなにも心乱されている。光栄より喜びよりも不安が勝って、郭嘉は小さく息を吐いた。この方の優しさは、本当は乱世になど向いておられぬのだ。私ごときの死で、心に傷を負って欲しくない。御身以外の死など取るに足らぬ、些細なものだ。

「今まで黙っておりましたが、何度も血を吐きました。典医ももう、陰の気に支配されており手の施しようがないと」

「……華陀を。そうだ、華陀を呼べ」

ふる、と短き鴉の濡れ羽を小さく乱し首を横に振る。その目に宿るは、諦めではなく悲壮なまでの覚悟。

「我が身の事は、私が一等よく分かります。私の炎は、じきに消える」

ゆっくりとしかし一語一語はっきりと、言い聞かせるように言う。それを私に受け入れろというのか。ああ、私は知っている。あるべき過去も、起こるはずの未来さえ、私は全て知っているのだ。しかし願ったとおり、昂も悪来も死ぬ事なく私の側に居るではないか。なぜ奉孝だけが予定通りに死なねばならぬ。

「そのような事、私は認めぬぞ」

「殿……志半ばで、殿の覇業を見届けられぬのが心残りですが」

「そうであろう。だから改めて天に願おう、おまえの不死を」

「いいえ。……いいえ、殿」

制止しようと裾に手を伸ばす郭嘉を、振り切るように立ち上がろうとしたその時、いつかの帝の言葉が頭に響いた。

“最も大切な者には、その願いは届かぬ”

――――ならば、奉孝は。

ぎし、と脱力し腰を落とした衝撃で榻(ながいす)が悲鳴を上げた。そのまま寄越した曹操の視線の力無さに、心が曇る。これでは死にきれぬと言いたいが、それこそ主の望むところだろう。滲む視界の真中に、眉宇を寄せる郭嘉が居る。触れればいつもの低い体温が伝わり、それだけでどうしようもない心持ちになった。

奉孝。――――奉孝、おまえなのか。私の、私よりも大切な者は、おまえか。

郭嘉が信じられぬといった貌で曹操を凝視したので、何事かと瞬きをすると、溢れたものが耐え切れず頬を転げ落ちた。一筋頬を伝う生温い雫。

ああ、泣いているのか。私は。

「死ぬな」

無意識のまま発した言の葉に、鉛を飲み込んだ胸が熱を持ってゆく。

「しぬ、な」

舌が縺れて使い物にならない。それでも繰り返した、何度も何度も。誰よりも失いたくない者だけを失うなど、天はどれほど残酷な命(めい)を私に与えたのだ。

「申し訳ございませぬ」

私は初めて、君主の命に背きます。これが本来のあるべき姿、どうか悲しまれぬよう。

そう言う郭嘉はやはり、笑っていた。

「ひとり、臣が病死したと聞いた」

「はい」

「それは、上奏文か?」

「はい」

「大切な者だったのだな」

「……はい」

「大切」などと、一言で片して良いのか分からなかった。しかし許容するに相応しい言葉が見当たらない。この感情のやり場も分からない。鉛を持った胸が痛んだままに、ただ目的を消化する為だけの生を削っていた。早く、早く覇業の完遂を。しかし急激な変化は反発を生む。そういった民草の不安や戸惑いを煽るだけ煽り、自らを祭り上げた筵売りとの戦に、随分と時を浪費させられた。

「――――天子よ」

「おまえが朕を引き摺り下ろそうとも、望み通りにはならぬ。流石に死者を蘇らせる事は出来ない。……それに、己自身の欲は天に届かぬ」

それが出来るならば随分前に、群雄と呼ばれる者たちを全て、朕の忠実な臣下にしただろう。朕の力を大陸全土にまで及ぶようにしただろう。しかし、他の者の願いしか、朕は天に届けられぬのだ。だからかの董卓も、自らを天子と名乗らなかった。

曹操は緩慢に首を振った。結い上げぬ髪がさらさらと零れ、覇気の足りぬ整った貌が現れる。曹操が天子になる気がないのは知っていた。帝は他が思うより随分と曹操を信頼している。しかし、彼の中にある激情のうねりがどう変化するのかは未知数だった。曹操は面を上げ、真直ぐに帝を視た。美しい貌だと、帝は心の中で呟いた。

「私に死をお与えください」

後を追うのではない。そのような愚行、あれは赦さぬだろう。

延々と続く生は苦痛だと知ったのだ。終わりなき命に輝きは生まれぬ。

ただ、それだけ。

「おまえが死ねば、おまえの願いは消える」

「構いませぬ」

「おまえの臣下も妻妾もいずれ死ぬ事になるが」

「それが、本来のあるべき姿です」

「……そうか」

ならば叶えよう、その願い。但し、今すぐというわけにはいかぬ。いつ叶うかも分からぬし、苦悶の果てに事切れるだろう。帝は淡々と述べ、最後に「ありがとう」と、本来の歳では決して出せないであろう若々しい声で、一礼した。

病の苦しみは予想を遥かに超えていた。おまえはこのような辛さに耐え、私と共に居たのか。汗を吸った着物が張り付いて気持ちが悪い。釜茹でされたような熱に頭痛が加わり、意識が遠のいてゆく。皆を下がらせた為に誰一人居らぬ部屋で、己の獣のごとき無様な呼気だけが耳に煩く響いている。

奉孝。

名を、呼吸の合間に呼んだ。この渇いた喉では音にすらならなかったが、それでも口を動かした。

ひやりと、心地よい感触が額に伝わった。冷たい掌が汗の浮いた額を撫で、忌々しい熱を吸収してゆく。うっすらと瞼を持ち上げたが、視界はぼやけたままだった。

繊細な指、いつ触れても低い体温、そしてこの香。

「奉孝か」

自分でも驚く程、まともな声が出た。応えはないが、笑う気配がしている。

「迎えに来たか」

おまえはもう、天下を統一するどころか三分してしまった私を、とうに見捨てていると思っていた。そう言うと額に置かれた手が頬に移動し、軽く摘まれた。仮にも君主だった者に何をするのだ。「怒ったか、すまん」曹操は笑った。そしてふと、頭痛が消えている事に気付いた。昔から郭嘉が居ると、何故か頭痛がしないのだった。そんな事を、今更になって思い知る。

「知っていたか。私が最も大切なのは、おまえだったようだ」

気配はいつまでも小春日和のように穏やかで、眠ってしまいそうだった。ああ、それもいいかもしれぬ。おまえとは近い内に、いくらでも逢えるのだから。いつかのように体温の低い掌を握り締めたが、やはりその指は折れなかった。やはりおまえは強い、私などよりもずっと。

瞼を下ろし、ゆっくりと意識を沈めてゆく。暗闇の中で手を差し伸べられ、その手を重ねた。いつもの低温が己のものに伝わってくる。その瞬間、黒の世界から一筋の光が差した。

ああ、行こうか。あの光の先へ。

皆もじきに来る。泉下で覇業の続きをしよう。

この手の持ち主が頷いた気がして、ゆるやかに微笑んだ。


作成日: 2009/03/15

ソソ様の命日(西暦換算)を記念して。もっと丁寧に書きたかったのですが、タイムアップ…。かなり駆け足ですね。

大戦のカオス世界を説明する為の設定を、ようやく少しだけ出せました。天=瀬賀?(笑)