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薄い背中

「すまぬ」と彼は、炎の爆ぜる音に紛れさせながら、小さく小さく呟いた。それは何か大切なものをそっと包み込むようで、そんな風にこの名を呼ばれればどんなに良いだろうと考え、すぐさま有り得ないと切り捨てた。

「何がだい?」

何に向けた言葉かは分からないながら、今この陣内に居るのは彼と自分だけだったので、どうかこの問いが彼の不興を買わないようにと祈りながら、伺うように口にした。彼の美しい紅蓮に僕が映り込み、それだけでもうどうしようもない気持ちになる。
とうに日は落ち、微風に揺らめく篝火だけが彼を照らす唯一のものだが、それでも彼の瞳は一際輝いて見えた。僕は例え新月の暗闇の中でも彼を見つけられるのだろうと、半ば確信している。

「おまえを連れてきてしまった」

どうやら僕に対する言葉で正しかったようだが、何の事を言っているのかが分からない。戦も他人も何ひとつ見通せぬものはないと自負し続けてきたが、彼に関してだけは未だ不明瞭なままだ。いつだったか「恋は盲目」などとあのお調子者が言っていたが、全くもってその通りだと、今ならそれについてだけは同意できる。
幕の隙間から吹く秋風が穴の開いた肺を冷やしてゆくのを感じながら、窮屈そうに床几に腰掛けたままの彼に近付いた。

「何故謝るんだい?僕は僕の意思で此処に居るんだよ」
「分かっている」

しかし彼の表情は曇ったままで、眉間の皺が取れる事はなかった。人前で厳しい顔をしてばかりの彼には、二人で居る時くらいは気楽でいて欲しいのに、どうにも上手くいかない。あの男なら苦もなくやってのけるのだろうかとふと考えて、舌打ちをしたくなった。もう、過去には戻れない。
途方に暮れていると、彼は床几を軋ませながら立ち上がり、僕に向かい合った。戦に塗れる前の彼のにおいがする。それに眩みそうになりながら、巨きな彼を仰ぐように見上げた。視界が彼と暗闇だけになり、そんな事に歓びを覚える自分があまりに滑稽で笑い出したくなる。

「半兵衛」

同じだ。先程のまるで宝物を紐解くような、およそ彼に似つかわしくない消え入りそうな呟き。驚愕に固まっていたら、そのまますっぽりと抱き竦められた。
彼のにおいで病んだ肺がやわらかく満たされてゆく。有り得ない事態に混乱した頭で、それでも決して縋ってはいけないのだと、広い背に回しそうになる空の拳を戒めた。

「半兵衛…」

なぜ、そんな風に僕を呼ぶんだ。どうしようもなく泣きたくなって、要らぬ事を口走りそうになって、不味い紅の味のする唇を噛んだ。僕に伸びている逞しい腕はあろう事か震えていた。彼は果たしてこのように、何かに怯えた事があっただろうか。その原因が万一己にあるとしたなら、自刃してもしきれない。

「すまぬ」

彼はもう一度、絶望したようにそう言い、やはり震えたまま何かを確かめるように僕を抱いていた。
君を笑顔にする事も、救う事もできない無力な僕は、一体何の為に此処に居るのだろう。


作成日:2009/09/30

はんべの病を知った秀吉。やっぱり両者片想い。