「お願いがあるんだ」
ほとんど減っていない盃を置いて、半兵衛は慶次に向き直った。
平生通りに京の街をぶらぶらと散策していたら「無理矢理に休養させられている」らしい半兵衛とかち合ったのがつい一刻前。互いに眉根を寄せつつこの不運を呪ったが、ここは戦場ではないし、体格の全く違う半兵衛相手に自分から喧嘩を仕掛ける気にはなれない。(あの変わった得物さえあれば、鬼のように強くなるのは知っているが、此処でそれを抜刀させるわけにもゆかぬ)ゆえに緊張感が足りなかったのか、傍を通りがかった贔屓にしている酒屋の親父に「知り合いか?だったら一杯やっていけ」と引きずるようにして屋内に連れ込まれてしまい、今に至る。
こいつとまた酒を飲み交わす事になるとは。慶次は忌々しいような悔しいようなこそばゆいような、何とも言えぬ心持ちを溜息でごまかした。
世辞にも綺麗とは言えぬ安っぽく喧しい酒場で半兵衛は明らかに浮いていたし、こういった場所に文句の一つでもつけてきそうであったが、意外な事にそういった悪態はつかず、出された酒を大人しく飲んでいた。慶次が記憶する半兵衛は、見目にそぐわぬ武家らしい酒飲みだった筈だが、隣に座している痩身の色男は、ちびりちびりとまるで酒に慣れぬ女のような飲み方をしている。
どうしたんだと訊こうとして、やめた。「こんな薄い酒を旨そうに呑めとでも?」などと、要らぬ反撃を喰らいそうだからだ。力なら捩じ伏せられぬ事もないだろうが、口となるとまた別だ。頭と舌で戦局すら一変させるこの天才軍師様に、口で勝てる人間が居るなら是非ともお目にかかりたい。
「君は本当に変わらないね」
出会ってからずっと無言だった半兵衛の第一声は、この喧騒の最中でも真直ぐに届いた。
「早速嫌味かよ」
ちぇ、と不貞腐れてぷいと横を向く。知らず唇と尖らせていたようで、それをちらりと認めた後にもう一度「全然変わってない」と呆れたように嘆息した。
「嫌味だよ。……でも、少し羨ましいのかもしれない」
羨ましい?驚いて半兵衛を見ると、手持ちの盃を揺らしながら波打つ中身を覗いていた。少しばかり、寂しげな目で。どうしたんだ、舌先まで出かかった本日二度目のその科白を慌てて飲み込んだ。どうせ尋ねたところで何も教えてはくれぬのだ。
最初から半兵衛はそうだった。心の内を見せる相手はただひとり、俺はいつだって蚊帳の外だ。あの時も――――
「慶次君」
ふと、何かを思い出したように、半兵衛は名を呼んだ。その声で現実に引き戻され、痛い程の無音だった回想は、喧しい京の男達の掛け合いに塗り潰され消えた。
そして、冒頭に戻る。
「……なんだよ」
半兵衛から「お願い」などと殊勝な科白が出てくるとは思わなかった。少なくともこの俺に対しては。不審がる慶次には気も留めず、半兵衛は再度口を開いた。
「聞いてくれるかい?」
「内容による」
「それじゃあ、駄目だ。聞いてもらえる確証がないと、教えられないな」
そう言い、ふふと菫色の目を細める。慶次には決して向けられぬその穏やかな笑みに、目を丸くした。本当に、一体どうしたんだ?おまえ。
「……ち、しょうがねえな。分かったよ、だが俺はできる範囲しかやらねぇぞ」
半兵衛は昔から苦手だったし、彼等の理想は今でも理解できない。だが、結局はお人好しの性分が勝ってしまった。またそれ以上に、半兵衛からの一度きりであろう自分への「お願い」の内容がどうにも気になってしまったのだ。そんな慶次の性質を見抜いた上でこのように話を持ちかけるのだから、なるほど策士である。
半兵衛は柔らかい笑みを崩さないまま、空気を震わせた。
「僕は労咳でね、もう長くないんだ。
そろそろ使い物にならなくなるから、その時は君に後始末を頼みたいのだけど」
頭を殴られたような衝撃に一瞬、気が遠くなった。視界も聴覚もぼやりと靄がかる。
……なんだって?おまえは、何を言っている?
「別に殺してくれてもいいのだけど、どうせ君にそんな度胸はないだろう。空いている小屋があるなら、そこにでも放り込んでくれるかい」
半兵衛は尚も微笑している。意味が分からない。これは一体何の冗談だ?
「慶次君?」
慶次を覗き込んだその瞳は相も変わらず涼しげで、嘘の一欠片すら見つけられなかった。先程から何事かを言おうとしているのに、呼吸がうまく行かずなかなか音にならない。ようやく言葉になったそれは、
「……秀吉は」
情けなくも震えたこの一言だけだった。
「知らないし、知らせるつもりもないよ。敵味方関わらず、傍らに侍る臣下が労咳と発覚すると困るし……そもそも秀吉に無為な心労を掛けるわけにはいかない」
「お前、いつから」
「さあ、発症は秀吉と出会った一年後からだけど、実際はもっと前から潜んでいたんだろうね」
「じゃあお前、そんな身体でずっと戦場に……」
「それが僕の“理由”だから」
体温のない言葉だった。なんて簡単に、自分のいのちの事を言うのだ。まるで道端に転がる小石のように、ぞんざいに。
確かに、出会った頃から病弱ではあった。膚は女のそれより尚透き通るほど皙く、季節の変わり目には必ずといっていいほど体調を崩し、無理をおしてはよく倒れた。男なのに軟弱な奴だ、などと呆れもした。
労咳。
それは死の言葉だ。決して逃れ得ぬ不治の病。いつ命絶えるやもしれない爆弾を抱えながら、半兵衛は生きていたのか。夢と秀吉の為に。
「……まさか今更、無理だなんて言わないよね」
初めて半兵衛の瞳が不安げに揺れた。この真実は誰にも漏らしていない。慶次が約束を反故にし秀吉に伝えでもすれば、半兵衛が苦しみながらも口を噤み続けた事は全て、たちまち無駄になってしまうのだ。これは半兵衛にとって人生最後の賭けであった。
長年嫌い続けた慶次の「甘さ」に縋って我が身の最期を託すなど、どうかしている。半兵衛は自嘲した。しかし親友と夢の為なら、矜持も拘りもかなぐり棄てられる。それに、誰かの厄介になるなら慶次が良いと思ったのも事実だった。慶次だけではない、秀吉と半兵衛にとってもあの日々は色褪せぬ宝物なのだ。
「約束は、守る」
慶次は手を握り締め俯いたまま、しかしはっきりと言った。その声はずっと震えている。この男は僕が死ねば泣くだろうと、半兵衛はぼんやりと思った。
「但し、条件がある」
「なに?」
条件の提示は想定外だ。だが慶次に己を委ねる以上、条件は飲まねばなるまい。どうせこのお人好しは、病人に無茶を言うなど出来ない。
「お前、今すぐ隠居しろ」
「……は、」
「戦に出るなって言ってるんだ」
――――参ったな、一番の無茶を言う。
「まだもう少しならこの体も使える。完全に使い物にならなくなるまでは、降りる気はないよ」
「自分を物みたいに扱うんじゃねえ!」
どん、と机を叩き徐に叫ぶ。一瞬にして店内が静まり返り、客が一斉に慶次を見たが、よくある事とすぐに喧騒は元に戻った。ああ、本当に君は子供のままだ。それは子供の疳癪だ。
「僕の夢の為には、僕自身すら駒だ。僕は夢と秀吉の為だけに生きてきたし、それは死ぬまで変わらない。君に理解してもらうつもりもないし、理解してもらえるとも思っていない。けれど口出しはしないでくれ。君は僕を、信念を曲げてまで生き存えたいと願うような愚者にさせる気かい」
「……そこまで尽くすなら、いっそ最期の最期まで傍に居たらどうだ」
慶次は唸るように言葉を絞り出した。血が出る程に握り締めた拳が震えている。この脆弱な手でも添えてやれば、その震えは治まるだろうか。半兵衛はちらと己の細い指を一瞥し、しかし所在無げに彷徨ったまま慶次に触れる事はなかった。
「君も知っているだろう。秀吉は優しいんだ、誰よりも。きっと彼は、僕の死を自分のせいにして苦しむだろう。僕などのせいで苦しんでほしくないんだ、彼女の時のような苦悩はもう、見たくない」
彼女、という言葉に慶次が顔をあげた。ねね、彼等が愛したたったひとりの女性。
「……ねねは、あいつが自分の意志で、殺したんだろう」
なんて悲しい貌をするのだ。ねねの話になるとつい昨日の事のように、慶次はいつも絶望する。半兵衛は感情の乗らない冷えた目でそれを一瞥し、小さく嘆息した。
「少し、違う。彼女は自ら命を絶ったんだ。僕達の夢の為に」
「……なん、だと」
「でも、それは秀吉が夢さえ願わなければ起きなかった事で、失われずに済んだ命だ。だから彼は己を責めた、自分が殺したも同然だと」
「嘘だ……!」
茶がかった黒の瞳孔を開かせて、唇を戦慄かせている。それを半兵衛は冷静に観察していた。少し考えれば分かる筈なのに、なぜ彼の優しさと甘さを忘れてしまえたのだろう。事実を曇らせる程に、慶次君は彼女を愛したのだろうか。
「それが嘘なら、君と決別する前にこの嘘を使って、君を敵に回さぬようにしただろうね。事実だからこそ、秀吉は業の全てを背負って口を閉ざした」
温度のない淡々とした声色で、半兵衛は慶次を突き放した。わざわざ過去の話をしにきたわけではないのだ、半兵衛にとって過去は過去でしかない。しかし、半兵衛が告げぬ限り彼等は永遠に和解する機会を失うだろう。これは慶次に己を託す為の布石でもあるが、自分の死後には慶次が秀吉の理解者になって欲しいからだという思いも少なからずある。
「悪いけど、僕にその条件は飲めない。けれど約束は守ってもらう。ぎりぎりまで豊臣の為に働いてから、隠居でも申し出て行方を眩ませるから、後は任せるよ。面倒になったら棄て置いてくれても構わない。ただし、誰にも僕の事は言わないでくれ」
絶対に、と付け加え、半兵衛は薄い酒を飲み干した。酒は好きだが、医者が酒と煙管と女は労咳に宜しくないというので、全てを絶った。宴や秀吉に勧められた時に少し飲むぐらいで、こんな風に酒場で飲むのは本当に久し振りの事だった。こういうのも、悪くない。
慶次は暫く唇を噛み締め押し黙っていたが、やがて呟くように「……わかった」と頷いた。
「良かった。誰にも僕自身を託す相手が居なかったから、困っていたんだよ」
これで安心して死を迎えられる。そう言って口元を綻ばせた。それはいたく幸福そうに。
「……本当に、それでいいのか」
「何が?」
「最期を看取るのが、俺でいいのか」
「看取ってくれる気なのかい?案外律儀だね」
「はぐらかすな」
「良いんだ。僕は十分傍に居られたから。これ以上はもう、何も望まない」
「……そうか」
それきり慶次は押し黙り、半兵衛も何も言わなかった。
慶次は恐らく、ねねの最期を看取っている。他者の死を異常に恐れるのはそのせいでもあるのだろう。このような、躯ばかりが大きくなってしまった子供に、また深い傷をつけなければならないのか。しかし悪い気はしなかった。たった一人でも例えどのような形であっても、自分を決して忘れない他人が居るなら、それは喜ばしい事だ。
半兵衛は困ったように小さく笑い、空になった二つの盃に酒を注いだ。
作成日:2009/08/27
文章リハビリ。
相変わらず「秀吉は僕がいなくても泣かないし過去として忘れる」と夢見まくってます。んなわけない。
ねね事件の真相は自分の中でも定まっていないので、また別の解釈で描く事があるかもしれません。